2020/7/11 Sat.
山野井 咲里(やまのい さり)さんの作品は初見となる。
DMの作品が非常に良い雰囲気だったので楽しみにしていたのだが、実際に見るとやはり良い。
山野井さんは茨城県出身だが、20年ほど県外で生活しており、今回の作品は茨城県に戻ってきた2014年から撮影したものだそう。
茨城らしいといえば茨城らしい、身も蓋もない言い方をすれば地方ではありふれた風景なのだが、人々から忘れ去られたような野原や、草木に飲み込まれそうになっている人工物などが多い。
わたしもそういったモチーフを描くことが多いのだが、今回の山野井さんの作品の撮影場所に立ったとすれば、わたしも同じ光景にカメラを向けたであろうことが想像できる。
そのくらい、わたし自身の嗜好との親和性を強く感じる作品だった。
(そもそも、わたしだけでなく、茨城で生まれ育った者にとっては、それらの風景がある種のノスタルジアをもたらすものなのかもしれないが)
もちろん、それはわたしの一方的な感想なのだが、話を伺ってみると、わたしが描く対象に見出しているものと、かなり近いものに目を向けているように感じられたので、うれしくなった。
さて、山野井さんの作品で特に目に付くのが、廃屋のような古い建物や小屋だった。
建物、とりわけ小屋と呼ばれるものは、建てた者以外には用途が分かりにくく、建てられた場所によってはいつまでも風景に溶け込めずにいることもある。
それが古いものになると、簡易な修繕(しかも現在ほど建築物の基準が厳しくない)によって、トタン板や木材に始まる様々な素材や部品のツギハギとなり、さらに草木の浸食を受け、何のために建っているのか、使われているのかどうかさえもわからない奇妙なモニュメントと化していく。
この「小屋」という存在は、会場に展示された山野井さんのテキストにも登場しているが、眼前に突如現れるそれは、不意に目が合ってしまえば逸らすことができない静かなまなざしをわたしたちに向けてくるようであり、異質さの象徴であるといえる。
ところで、山野井さんは、自身が撮影する対象に対し、「ニュートラルな」という表現をしていた。
これは、感情による色分けをせずに、或いはそれを必要とせずに対象と対峙する動機を持っているということだとわたしは解釈したが、小屋にしても、野原にしても、雨のスカイラインにしても、確かにその主軸にあるのは、美しさや劇的な要素でもなければ、寂しさや憂鬱といったものでもない。
そこにあるのは、人々が手を加えることも、見ることさえもやめてしまったものたちが、それゆえわたしたちの認識の外で作り出してしまった、
またはわたしたちが手を入れることで「自然」ではなくなったものが、再び「自然に近い」状態に立ち返ろうとする過程で生まれてしまった、
ほかとは異なる世界をとらえようとするまなざしなのではないだろうか。
ただし、一見主題としては何もいないその「ニュートラル」は、よくよく見ていくと「在」か「不在」でいえば「在」に寄っているように感じられる。
その場所にかかわった誰かの存在か、もしかしたら人ではない、写された世界そのものの息づかいなのか、何かがそこに「在る」ということを感じさせるのだ。
そしてその「在る」ということが、「ニュートラル」をほんのわずかに「正」の方向に傾け、結果として見る者の心を引き付けているのではないだろうか。
いきづく - Things Which Breathe in scenery –
第2期 山野井 咲里 展
2020年7月11日~7月20日
ギャラリー・サザ
(茨城県ひたちなか市共栄町8-18)
https://www.saza.co.jp/index.php