2020/01/23
アトリエで一緒に作業をしている友人の作業スペースに、絵の具を溶いた水がたまったボウルが放置されていた。
青い水面には、窓の外の庇が映り込んでいたのだが、空間がひっくり返っているせいもあって、はじめは部屋のどこが映っているのかよくわからなかった。
不思議でも何でもないものも、枠で切り取ってみると意外な像を結ぶことがあって面白い。
ところで、最近、工芸作家の方と、なぜ展示をするのかという話をした。
オーソドックスな展示はギャラリーなど、専用の展示空間を利用する。
使用料などの経費がかかるので、作品を売ることだけを考えれば、メリットは薄いのかもしれない。
これに対して、売るために作品を作っているわけではない、という答え方もあるのだろうが、個人的には、それは説明になっていないし、何となく態度が曖昧であるようにも感じられた。
わたしは、この問題を考えるうえで整理するべきは、何を”作品”とするのかという点であると考えている。
作った”モノ”を売るのであれば、展示の必要はなく、機能に優れ、見た目も美しいことが伝われば、それで成立する。
しかし、絵や彫刻の本質は、絵の具が塗られたキャンバス、切削された木材、型取りしたブロンズといった物理的な状態ではいだろう。
美術作品が金銭と交換されうる要素は”イメージ”なのである。
それゆえ、物質としての”作品”が存在しないインスタレーションという方法が成立し、パブリックスペースに突如現れる異質な造形がアートと認識される。
”イメージ”が3次元空間に存在しているという現象をより効果的に示すために、展示という方法がとられるのである。
わたしの場合は、基本的に作品を見せる展示ではあるけれど、それでも”イメージ”を提示する、見せるという行為においては、展示まで含めて完成、一区切りと認識している。
こういった現象を、わたしはよく神社に例える。
しめ縄が巻かれた岩石や鳥居のように、作品が存在するだけで、ある空間が特別なものであるように錯覚させるのである。
作品を作る、売る、展示をする理由は人によってさまざまだろうし、わざわざ言葉にして語るほどの理由や説明を付けるのも白々しい気はするのだが、わたしは自身の行動を自分で納得できるだけの説明を考えてしまいがちなので、あえて言葉で整理してみたくなった。
とはいえ、展示を目的とした空間に置かれなくとも、作品単独で”イメージ”は伝達できる。
また、作品がただ置かれていることによって、周囲の空間すべてを特別なものに塗り替えることこそがある種の究極だとすれば、やはりこれは詭弁かもしれない。
肝心の制作だが、F4号はディテールが入りもう一息といった具合。
アトリエのF50号も、完成までの見通しが立ってきたところ。
F4を重点的に進めていたのでF8号は放置中。
来週後半には手を入れ始めたい。